さよなら、ブレービー&ネッピー。球団マスコットの先駆者、島野修さん死去。

さよなら、そしてありがとう。

こんばんは、ねぴです。
寝る前にmixiやTwitterを見ていたら悲しいニュースが入っていました。

ネッピーの「中の人」、島野修さん訃報のニュース

阪急〜オリックスのマスコット、ブレービー&ネッピーの中の人として18年間活躍した、島野修さんが亡くなられたというニュースです。
残念です。病気療養中というのは聞いていたのですが…。

島野修氏死去…59歳巨人、阪急でプレー
巨人、阪急でプレーし、現役引退後は阪急、オリックスの球団マスコットとして活躍した島野修氏が8日午前、脳出血のため兵庫県西宮市内の病院で死去したことが分かった。59歳。神奈川県出身。葬儀・告別式は遺族の意向により、近親者のみで執り行われた。
68年に武相高からドラフト1位で巨人入団。巨人では1勝に終わり、76年に阪急(現オリックス)へ移籍、78年に引退した。通算成績は24試合登板、57回1/3で1勝4敗、1完投、防御率5・05。
81年以来、18年間マスコット役を務め、98年10月3日、グリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)での近鉄戦で“現役”を引退。マスコットとして通算1175試合に出場した。

ブレービー&ネッピーとして子供たちだけでなくプロ野球ファンに夢を与えてくれた島野さん。島野さんがいなかったら現在のマスコットたちが活躍はなかったとも言えるでしょう。

ハンドルネーム「NEPPIE」が生まれたきっかけ

ついでにいえば、ネッピーがいなかったら、私のハンドルネーム「NEPPIE」も生まれてなかったです。

15年位前、パソコン通信やインターネットを始めるようになって、ハンドルネームを考えようと思った時、ふと浮かんだのが「NEPPIE」でした。(読みは「ねぴ」にしましたが)

当時オリックスブルーウェーブのファンだったのですが、ファン仲間たちにNEPPIEをハンドルネームにしていいかなぁと聞いてみたら「いいんじゃない」という答えが多かったので、そのまま使い始めたのでした。

もともとドラゴンズファン(最近はファイターズファンでもあります)な私としてはこれを使い続けるのはとも思いましたが、気に入ってるし、みんなからも受け入れられているので、現在まで使い続けています。

その後個人のホームページを立ち上げた時、ドメインを取得する時に「neppie.com」というのを申請してみたら通りました。

球場で撮ったネッピーの写真を振り返ってみる

ちょうど実家に戻っていたので、昔のアルバムをひっぱりだしてみました。
96年夏、神戸に住む友達の家を訪れた時、彼女と一緒にグリーンスタジアム神戸に行き、野球観戦してました。オリックスブルーウェーブ対近鉄バファローズ。その写真があるかなぁと思って探してみたら、見つかりました。
写真の日付を見たら「(8月)4日」とありました。

最初の写真は試合前、グラウンドを歩くネッピーです。

外野スタンドに向かってポーズを決めてくれたネッピー。お気に入りの1枚です。

ちなみにこの写真をブルーウェーブの雑誌(当時出てました)に送ったら、写真コーナーに採用されました。

5回裏、バギーを走らせるネッピー。
外野から内野に向かって走り、途中ジャンプするというのは、相当ハードだったと思います。

96年なので、この時のネッピーは、もちろん島野さんです。
同年6月15日、マスコットとして1000試合出場を達成した記念の年でもあり、そして、日本シリーズでかつて在籍したジャイアンツを倒して日本一になったという、島野さんにとっておそらく印象に残るであろう96年に、ネッピー(島野さん)に会えた事が、私自身もとても忘れられない思い出として残ってます。

現役投手からマスコットへ。子供からの嬉しい声がマスコットとして生きる決意に

ブレービー&ネッピーの活躍があったからこそ、今のマスコット人気があると思います。ドアラ、つば九郎、B☆B、トラッキー、マーくん…彼らが生まれる土壌を作ったのは、間違いなく島野さんでした。

ドラフト1位でジャイアンツ入団、しかも星野、田淵、山本浩二…といった後のスター選手と同期になってという華々しいスタートでした。しかしプロ野球選手としては活躍出来ずに引退し、第二の人生として与えられたのが「マスコット」。打診された時は「元プロ野球選手がマスコット?」と屈辱に近い思いがあったかも知れません。

初めの頃は、ブレービーとして球場にいる時、現役時代を知っている観客から野次られたという事が何度もあったそうです。やけ酒を飲む時もあったそうですが、ある日、隣にいた親子の会話を聞いて、ハッとさせられたそうです。

「今日のブレービー面白かったね。明日もブレービー見に球場に連れてってね」

この子供からの一言で、島野さんの思いが変えられ、子供たちのためにブレービーを演じる事に徹するようになったと書かれてました。

その後のマスコットとしての活躍は周知の通り。ブレーブスがブルーウェーブに変わったとき、マスコットがブレービーからネッピーになった後も島野さんは夢を与え続けるためにグラウンドを駆け回りました。

バギーを走っている時にバギーから落ちて骨折した翌日もネッピーを演じたという話もあるし、休まずに球場に登場したというのも逸話になってます。

1996年、イチローのサヨナラタイムリーでリーグ連覇した時、ネッピーも輪になって喜んでました。

私も忘れられない1996年日本シリーズ。

オリックスが日本一になり、歓喜の輪に静かに加わったネッピー(島野さん)、ジーンと来ました。

「ありがとう」と伝えたい

本当に残念だけど、今言える事は「ありがとう」の一言です。
天国でプロ野球を、そして自由奔放に走り回るマスコットたちを暖かく見守っていて下さい。

島野修さんのご冥福を心からお祈り致します。

ネッピー、島野修さんについては、こちらの記事も合わせて読んでみてください。

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この記事を書いた人

Minako 'NEPPIE' Seki

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