「鉄人」衣笠祥雄さんの人柄を感じさせるエピソードを綴ってみました【追悼】

2018年4月23日夜、広島カープの内野手として活躍した「鉄人」、衣笠祥雄さんが亡くなりました。
突然の訃報を聞いた時、言葉を失いました。

ニュースまとめ

私は訃報を彼と食事した時に聞いたのですが、速報が流れたそうです。

衣笠祥雄さん 死去4日前かすれ声解説 鉄人貫く – プロ野球 : 日刊スポーツ

広島「鉄人」衣笠祥雄氏が死去/写真特集 – プロ野球 : 日刊スポーツ

衣笠祥雄さん 死去 元広島の「鉄人」 | NHKニュース

訃報を聞いて、午後Facebookにこう投稿しました。

私が野球を本格的に見るようになった頃、カープは常勝軍団で衣笠さんは山本浩二さんと共に主軸を引っ張ってきた選手でした。
野球を見はじめて、ドラゴンズのファンになってきた1984年の事です。

この年、ドラゴンズはカープと首位争いしていましたが、9月に入っての直接対決でカープが勝ち越し、その勢いで最後はカープが優勝を決めました。その後日本シリーズで阪急ブレーブスを破り日本一にもなりました。
ドラゴンズファンとしては悔しい結果になったので今でも印象に残ってます。

この年のMVPに輝いたのが衣笠祥雄選手でした。
ここぞという時に打った姿は今でも印象深いです。強かったなぁ。

身体も心も強かった「鉄人」

強かったといえばやはり、連続試合出場「2215試合」という記録を作った「鉄人」であること。

1975年の衣笠祥雄さん

この写真は1975年、カープが初優勝した年の衣笠さんです。ユニフォームに歴史を感じます。

この写真が載ってる本を、実家の父の書斎で見つけました。

V1 広島東洋カープ球団史

カープが初優勝を達成した翌年春に発売された、「V1 広島東洋カープ球団史」です。

1976年のキャンプイン

優勝した翌年のキャンプインでの集合写真。優勝ペナントが重みを感じます。

 現役時代は「赤ヘル軍団」広島の象徴として時代を彩った。プロ3年目の67年、後に広島や西武などで監督を務める根本陸夫氏の1軍コーチ就任が転機となった。2軍暮らしが続き、私生活も乱れていた時期に合宿所で毎晩のように説教され、長打やフルスイングという原点を見いだした。翌年から主力へと成長。長年低迷していた広島を山本浩二氏とともに引っ張り、75年に初めてリーグ制覇した。79、80年に連続日本一。黄金期を支えた。

日刊スポーツの記事より「衣笠祥雄さん 死去4日前かすれ声解説 鉄人貫く

プロ3年目に根本睦夫さんがコーチとして入るまでは芽が出ず、私生活も乱れていたというのを読んでビックリでした。試合を出続けている姿に真面目さを感じていたからだったのですが、恩師との出会いが全てを変えるんだなぁと思いました。

死球骨折の翌日のフルスイング

訃報のニュースを読んでいる中で取り上げられてる一つが、1979年8月1日の「死球骨折」。

衣笠氏の鉄人伝説 死球で骨折も志願の出場「1球目はファン、2球目は自分、3球目は西本君のため」 – スポニチ Sponichi Annex 野球

この時はジャイアンツの西本聖投手から死球を受けて、左肩甲骨を骨折。全治2週間と診断され、翌日の試合は出られないだろうと誰もが思ってたそうです。

しかし翌日。
衣笠選手は代打で出場。それだけでも驚きなのに、そこで3度フルスイングしたというのがさらに驚きでした。空振り三振に終わったけど、この時の凄さはまさに「鉄人」でした。

衣笠さんは3度のフルスイングをこう話してます。

「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のために振った」

西本聖さんは、この時の事をこう振り返ってました。

西本氏、衣笠さん死球骨折でも感動した気遣いの言葉 – プロ野球 : 日刊スポーツ

当時5年目と若かった西本さんは衣笠さんに死球を与えた後、乱闘騒ぎになるグラウンドの横で衣笠さんに謝ったのですが、そうしたら「俺は大丈夫。それより危ないから早くベンチに戻れ」と逆に気遣ってくれたそうです。
西本さんが試合後、衣笠さんの自宅にお詫びの電話を入れた時も「大丈夫だから心配するな。それより、勝っていた試合に勝てなくて、お前は損をしたんだぞ」気遣いの言葉をもらったそうです。

「3球目は西本君のために振った」は、「西本聖」を一流の投手へと成長していく上で大切な言葉になったと言っても過言ではないように思いました。
プロの厳しさと人一倍の気遣いを持っていた衣笠さん

「江夏の21球」は衣笠さん抜きでは生まれなかった

プロ野球で長年語り継がれるであろう「江夏の21球」。
1979年、日本シリーズ第7戦。近鉄対広島。
カープが初の日本一に輝き、9回裏の江夏豊投手が投げた21球を巡るストーリーが繰り広げられたシリーズです。

江夏の21球

私自身はリアルタイムでは観てませんでしたが、ある本をキッカケに「江夏の21球」を深く知りました。

スポーツジャーナリストだった故・山際淳司さんが書いたエッセイ「江夏の21球」。
角川文庫から刊行された文庫本「スローカーブを、もう一球」でこのエッセイがありました。
「江夏の21球」については別記事に書こうと思いますが、この中に書かれている一つのシーンから。

「江夏の21球」衣笠さんの言葉で難逃れ名場面生む – プロ野球 : 日刊スポーツ

衣笠さん死去:「江夏の21球」支えた沈着さ – 毎日新聞

衣笠祥雄さんなくして「江夏の21球」はあり得なかった

1点リードの9回無死満塁。ベンチがリリーフの準備を始めたことに心をかき乱されていたが、その心情を察した衣笠氏が一塁から歩み寄った。「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」。一緒にユニホームを脱ぐほどの覚悟を示す熱い言葉に、集中力を取り戻したという。

引用はスポーツ報知から。
「お前が辞めるなら、オレも一緒に辞めてやる」

ワンアウト満塁になり大ピンチで動揺していた江夏投手に対し「俺も同じ気持ちだ」と声をかけ、冷静にさせたのが衣笠さんだったんですよね…。

江夏豊さんは衣笠さんとは「3日に一度は話しする」ほど心を許す数少ない親友とのこと。
訃報を聞いた時は松山で試合の解説を行う予定だったのが雨天中止になって、とんぼ返りで東京に戻り、衣笠さんと無言の再会をしたそうです。

「順番だから仕方ない。いいヤツを友人に持った。オレの宝物。まぁ、どっちみちワシもすぐ追いかけるんだから。次の世界でまた一緒に野球談議をするよ」。

最後まで「鉄人」のままで…

衣笠さんはここ数年がんで闘病生活を送っていたというのは知りませんでした。
確かに最近声が弱いときがあるなぁと思ったりしてましたが、病気を患いながらも最後まで仕事を続けていた事が凄すぎます。
19日のDeNA対巨人戦(横浜)でBSーTBSで解説を行ったのは聴けなかったのですが、声が弱くて観ていた人から心配の声が上がったそうです。
体調面が不安視されて急遽槙原寛己さんも解説に呼ばれたということを聞きました。

江夏さんもチェックしていたそうで、翌日には衣笠さんに電話してこう話したとか。
「声も出ていないんだから。1、2年たっても(世間から)絶対忘れられないんだから無理するなよって…」

でも、声が出せなくても野球の事を伝えたい、話したいという思いは最後まで「鉄人」であり続けたんだという証とも言えるでしょう。
だからこそ、もう少し頑張ってほしかったけど…。

それにしても星野さんといい、衣笠さんといい、早すぎます。今頃は天国で星野仙一さんとも再会してるでしょうか。

最後に…

ナックルボールを風に

自分が持っていた山際淳司さんの文庫本「ナックルボールを風に」。
発売から版を重ねて発売された時に買ったのですが、その時の帯には衣笠さんが寄稿していました。
山際さんが亡くなった翌年(1996年)の事です。

帯にはこう書かれてました。

お互い歳をとってから、
またゆっくり語り合いたかった。
野球のことーー
そしてあの日一緒に行った、
クーパータウンのことを。

衣笠祥雄

山際さんとも天国で再会して、野球のこと、クーパータウンの事を語り合っているでしょうか…。

衣笠祥雄さんのご冥福を心よりお祈り致します。

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