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★☆Chapter2☆★
Chapter2.デジタルとアナログ
OOPS!
(C)OOPS!

ようこそWeb Worldへ! インターネットという新しい世界をneppieと一緒にWebしていきましょう。
梅雨の真っ最中なのに、この前大きな台風があったけど雨が少なくて、どうも空梅雨になりそうな感じですね。 雨ばっかり降るのも困りますが、あまり降らないのもちょっと季節感が感じられない感じがします。 気分がまいってしまいがちですが、あと少しで本格的な夏、頑張りましょう。

今月は、私の生活とパソコンとの関わりについて書こうと思う。
私が自分のパソコンを買うきっかけとなったのが ニフティサーブ(現:@nifty)という パソコン通信を始めた事からというのは先月書いたばかりだが、 実際パソコンを導入するようになってからというものの、生活がかなり変わったと思う。
メールを使ってのやりとりやフォーラムやホームパーティ (ニフティサーブでオンラインやオフラインに交流を与えられている場)での参加や発言は欠かせなくなったし、 ちょっとした情報もわざわざ本屋に行ったり、TVでチェックしなくてもすぐに取り出せる事が出来る様になった。
とはいっても一日中パソコンを繋ぎっぱなしという訳ではなく、 普段の生活をしながら気長に付き合っているという感じで接している。
ただ一番変わったことは会社で使う時間も含めて、パソコンを使う時間が一段と増えた事 (そのせいで視力が少しずつ下がってきている(泣))、また手紙を書く時間が取れなくなった事が大きい。 特にメールでのやりとりが多くなったことで手紙でゆっくり書くことをおろそかになってきた気がする。
確かにメールはパソコン等があれば気が向いたときに書けて、その内容を相手に瞬時に送ることが出来るし、 遠距離の相手でも近くのプロバイダーを通して送ることが出来るので、 電話より料金が掛からずに手紙より早く送れる、便利な伝達手段ともいえよう。 ある所ではインターネット等の「電子」メールに対し手紙は「原始」メールといっている位 だから、 一般の人がメールを当たり前に使う様になるのも時間の問題かも知れない。
しかしここで私は、これだけではいけない事に気が付いた。 電子メールの物足りなさは「手書き」でない事である(当たり前か)。 パソコンに取り入れられるメールは、文体が統一されていて読みやすいものの、手書きの文からは相手の表情は読めてこない。 もちろん文章からその人となりを感じることはできるのだが、 やはり直筆の手紙が届くと、形に残っているものとして重みを感じるのである。 普段はEメールで十分であっても、ここぞというときには手紙で伝えていかなければ・・と思うようになった。
今、時々手紙で書こうと思って普段からレターセットや葉書を持参する様になった。 気が向いたときや時間が空いたときにはなるべく書こうと思っているのだが、 なかなか時間が取れなくて、返事を書けない事が多い。 でも少しずつ実践していきたいと思う。Eメールと手紙を上手く利用していきたい。

97年6月8日、教会での礼拝後、教会学校の教師に向けての研修会があった。
まず教会員の一人が 「パソコンを使っての聖書教育」という題で講義を行った。 OHPでインターネットの画面を出しながら説明していたのだが、 その中で「パソコンを使っていろいろなフォローアップが出来ればいいなと思う。例えばインターネットで教会の情報を知った人が実際に教会へ導けたらとか、インターネットやCD-ROMの画面を辿りながら聖書の事を勉強するとか」といったくだりがあった。 それを聞いて私はなるほど、と思った。
今では一人一台パソコンがあるといった感じだが、 果たしてそれを本当に使いこなすことが出来るのかと聞かれると、とにかく使いこなせば大丈夫と答えると思う。 パソコンの良さは、自分に合った形に変えることが出来るという所だと思う。 操作に慣れるまでが大変だが(ここで挫折する人も多い)、一度慣れてきたら自分のやりたい様に工夫する事が出来る。 必要なソフトを入れたり、初めから入っているソフトの中でいらないのがあればパソコンから抜き出せばいい。 新しいOSが出ればバージョンアップする事も出来る。使いこなすうちに自分と同化していく感じになるだろう。 そうなれば、パソコンは自分の生活に無くてはならないものになるはずだ。
そして使いこなせる様になったら、パソコンを使って自分がやりたいことを始めていけばいい。 私の場合は通信とインターネットが中心だが、例えば絵を描くにも、 音楽を始めるにも、文章を書くにも、聖書などの勉強をするにも良し・・といった感じで、 自分の目的にあわせて使っていけばいいだろう。
この講義で彼が話していた「聖書教育」をパソコンやインターネットを使って利用する事にも近いうちに始められたら・・と思う。 (ゆくゆくは教会のホームページを作ることも出来るだろうか…)

さて今回の講義ではもうひとつ、別の教会の婦人による「信仰の継承について」と題された講義があった。
申命記6章4〜9節を発題聖句にして、村松姉はこう話していた。 戦後50年経ち、物的には豊かな世の中であっても、精神的には豊かとは限らない。 その中で子供達に何を伝えたらいいのか。信仰を持っている自分としては子供達に「信仰」を伝えていきたいと思う。 言葉であらわすのでなく、行動で「無言の証」をしていきたい、と話された。

イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。
あなたは心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛さなければならない。
今日、私があなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
努めてこれをあなたの子らに教え、
あなたが家に座しているときも、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、
これについて語らなければならない。(申命記6章4〜7節)

この一見全然違う内容の講義を同日行ったのだが、ふとしたところで一つに繋がっている所を見つけた。
パソコンを利用して信仰を伝えていくこと(「デジタル」方式といえる)という話と、身近な伝達方法で信仰を伝えていくこと(「アナログ」な方法と言えよう)の両方を示したのである (婦人の方は話の途中で「私はパソコンは苦手なんで・・と言っていた)。
パソコンが普及し、伝達手段に電子メールが加わった今、「デジタル」と「アナログ」の共存が重要視されていくと思う。これからますますインターネットが普及したとしても、生活全体をネットだけで済ますこと、 つまり「デジタル」な生活は出来ないに等しい。 むしろ実際に人に会ってコミュニケーションをとるという「アナログ」な感性が重要視されていくだろう。 インターネットやパソコン通信はあくまでも伝達手段の過程にすぎない。 そこから人と人とのコミュニケーションに発展させるためには、 普段から「アナログ」な感性を持ちつつ、自分の考えを自分の言葉で話す訓練が必要になっていくだろう。 私も普段から人との関係を保ちつつ、自分自身を鍛錬していきたい。この訓練は難しいことだと思う。 でも聖書にこう書いている様に、鍛錬が希望に変わっていくことを信じていけば、うまくいくはずだ。

患難は忍耐を生み出し、忍耐は鍛錬を生み出し、
鍛錬は希望を生み出すことを知っているからである。
そして希望は失望に終わることがない。
(ローマ人への手紙 5章3〜5節)

Last Update:1997/6/30
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